拝殿に掲げられている神号額
信州・諏訪大社本宮宮司
三輪磐根氏揮毫による神号額

○ 第53代淳和(じゅんな)天皇の天長三年(826 平安時代)田戸修理太夫の居館内の田戸村白山中腹に本殿を創建し勧請する。なお、田戸修理太夫の居館址は今も田戸白山にあると云われ、白山神社が祭られている。更に毎年五月四日に挙行される諏訪神社例大祭には、三年に一度神輿が田戸地区に渡御される。

四倉町田戸地区白山
往時田戸修理太夫が館をかまえ、
その中腹にはかつて諏訪神社本殿
があったという。現在は白山神社
がまつられている。

白山神社社殿
田戸白山中腹に祭られている
諏訪神社がかつて鎮座していた地

(資 料)
  居館址付近には、松の大木(樹齢約三百年 樹高約四十b 幹回り約四・五b)通称 山太郎と呼ばれる松が樹生していたが、近年松食い虫に侵され枯れ始め、昭和六十一年(1986)惜しまれながら切り倒された。また、その松の大木は白山神社の御神木で田戸地区のシンボルでもあった。さらに近海漁をする時、船の航海目標にもなっていたという。

○ 第82代後鳥羽(ごとば)天皇の文治五年二月(1189 鎌倉時代前期)鈴木家累代宮司祖鈴木重家、紀州(和歌山県)牟婁(むろう)郡有馬村榎本より移住し社家となる。

○ 第88代後嵯峨(ごさが)天皇の寛元元年九月(1243 鎌倉時代中期)本殿を改築する。

○ 第103代後土御門(ごつちみかど)天皇の文明元年(1469 室町時代)八代目の鈴木重長祠官に任じ、田戸郷白山より現在地の館山(四倉町字西三丁目地内)に社殿を移動し遷座する。

(資 料)
※館山(たてやま)とは・・
 現在の諏訪神社の裏山一帯を指し、古来この付近には館がありこの館を磯見館と呼んだ。磐城四十八館記(神林復所 著)によると、千葉より来た四倉大膳太夫の家老新妻雅楽極光貞の居館と記されている。館跡にふさわしく松林に囲まれ南に面し平地になっている。出入り口は西側になり、北側の崖下には溜池があった。館から下り易い斜面下(現在はいわき市立四倉第一幼稚園園庭付近)には馬つなぎ石があった。さらに深い井戸があったとされる。

○ 第108代後水尾(ごみずのお)天皇の慶長十八年二月(1613 江戸時代初期)磐城平藩主鳥居左京亮忠政公、神田として一石九斗四升を寄進する。

○ 第111代後西(ごさい)天皇の寛文元年九月(1661 江戸時代初期)本殿改築する。

○ 第113代東山天皇の宝永八年二月二十二日(1711 江戸時代中期)吉田神祗官領、正一位と宣下する。

○ 第114代中御門(なかみかど)天皇の享保年間(1716年頃 江戸時代中期) 磐城平藩主内藤備後守政樹公、諏訪大明神参拝のみぎり紫白交色の朝鮮牡丹二株を神園に献納される。

磐城平藩主内藤備後守正樹公が諏訪神社に献納した
と伝えられている朝鮮牡丹(平成16年4月撮影)

○ 第115代桜町天皇の寛保年間(1741年頃 江戸時代中期)本殿を改築する。

○ 第115代桜町天皇の延享五年(1748)七月三日本殿屋根葺替えをする。(棟札による)

○ 第117代後桜町(ごさくらまち)天皇の明和三年冬(1766 江戸時代中期)禅僧・大慈衡巓(だいじこうてん)、諏訪大明神の手水舎(てみずしゃ)の石に漢詩を刻す。

衡巓が諏訪大明神に寄進した手水舎石
〜境内に安置〜
表面
雕 蓄 水 石 蓄水の石を彫り
獻 大 明 神 大明神に献ず
掬 之 漱 條 之を掬(スク)い漱(スス)ぎ滌(アラ)うは
便 賽 祷 人 便(スナワ)ち賽祷(サイトウ)の人。

兀子(ごっし) ※兀子は衡巓の号

裏面
明和丙戌 冬(明和三年冬 1766) 道肥 立
意訳 田辺碩声氏

○ 第117代後桜町(ごさくらまち)天皇の明和四年冬(1767 江戸時代中期)禅僧・大慈衡巓、諏訪大明神を賽する漢詩を詠む。四倉の情景を「四倉十四景」にまとめ著す。

(資 料)

諏 訪 神 宮    衡 巓

徳明護世大明神
黙祷傾心賽祷人
五六百家華表外
被光庇在四倉濱

徳明ラカニシテ世ヲ護ル大明神
黙祷シテ心ヲ傾クル賽祷(さいとう)ノ人
五六百家華表(かひょう)ノ外ニアリ ※華表=鳥居のこと
光庇(こうひ)ヲ被ルハ四倉ノ浜ニ在リ
恵み深く御加護の厚い大明神
一心に黙祷してお賽銭を投じる民人
大鳥居の外には五六百の家並み
四倉の浜も冥加(みょうが)を被(こうむ)っている 意訳 田辺碩声氏

※大慈衡巓崇松(だいじこうてんそうしょう)1688〜1776
 衡巓は福島県いわき市平の人。本名は鈴木崇松(たかまつ)。父方のルーツは熊野水軍につながる鈴木三郎重家。重家は、源義経の奥羽逃避行に援軍として付き従い討死したという。衡巓は十歳のとき、曹洞宗・長源寺(平・胡麻沢)で剃髪。長じては、悟達をもとめ京都・北加賀・肥前等に雲水行脚。中年には関川寺(かんせんじ)(福島県白河)の住持、晩年は大慈庵(同県四倉)ですごした。


○ 第119代光格(こうかく)天皇の文化三年(1806)四月奉修補正一位諏方宮神輿修繕の棟札あり。彫刻塗替とある。神主 鈴木近江守重温 氏子総代 佐々木藤蔵 小名濱代官 寺西重次郎

○ 第122代明治天皇の明治元年(1868)明治新政府の祭政一致政策により神仏分離令が発令され、廃仏毀釈が行われる。江戸時代までは神仏習合により「諏訪大明神」とよばれていたが、これを機に「諏訪神社」と改称される。

○ 第122代明治天皇の明治六年(1873)明治新政府の社格制定により、当社は村社に列せられる。
氏子数 四倉村 三百六拾五戸 塩木村 弐拾戸 合計三百八拾五戸 明治六年四月八日現在 (本殿御神鏡銘による)


(資 料)
※ 社格とは・・
 昔、日本は神国と云われた如く、我国に多数の神社があり、当四倉町にも大小合わせて三十数社の神社がある。古事より我国民は敬神の念が篤く、特に戦前の国家は政治と宗教を結びつける事により、政治の強化を計り民族精神の統一を企てたのである。即ち戦前に云われた祭政一致とはこの事である。時の明治政府は明治六年(1873)それぞれの神社に「社格」を設け神国としての形を整えたのである。
 社格とは神社の格式の事で、官幣社・国弊社・県社・郷社・村社・小社・等に区分され、さらには官幣社は大社・中社・小社に分かれて、国が祭典費を供進した。
 しかし、昭和二十年(1945)敗戦により、国から祭典費は下付されなくなり、昭和二十一年(1946)からは完全に国と離れ、信者のみの神として取り扱われるようになった。

(資 料)
諏訪神社社格決定のエピソード 
 諏訪神社の雲龍
  明治六年(1873)当社、社格決定のため来社した係官が霊体を検めんとした際に、一天掻き曇り豪雨襲来し、その時雲龍が火を吐き昇天するを認めたという。人々これを称して神霊の現神であると言い伝えている。

○ 第122代明治天皇の明治十年(1877)五月二十日 諏訪神社神輿営繕の棟札あり。神主鈴木重寿 用係 小湊利左衛門 菅波貞蔵

○ 第122代明治天皇の明治二十五年(1892)五月四日 諏訪神社神輿再造営 神主鈴木重寿 氏子総代 鈴木甚太郎 福島県知事従三位男爵 渡辺清(棟札による)

○ 第122代明治天皇の明治二十七年(1894)日清戦争時、陸軍省より砲弾一個奉納される。(金属供出のため、現存せず)

明治三十八年ごろ、絵図に描かれた諏訪神社


○ 第122代明治天皇の明治三十七年(1904)日露戦争時、同省より砲弾三個、戦時用器一個を下賜奉納される。(金属供出のため、現存せず)

○ 第123代大正天皇の大正十一年(1922)四月八日 氏子有志が厄除記念に神輿塗替をする。(境内の石碑による)

○ 第123代大正天皇の大正十二年(1923)四月八日 氏子有志が厄除記念に神殿の銅屋根を葺替えする。(境内の石碑による)

○ 第123代大正天皇の大正十五年(1926)四月八日 氏子有志が厄除記念として参道階段下にある手水舎の石を改築奉納する。

大正十五年に改築された
手水舎石
(平成二十年五月二日改修・竣工)
施工者 松崎三男氏
板 金 遠藤板金店


○ 第124代昭和天皇の昭和五年(1930)四月一日狛犬の石像一対が第三十三代宮司鈴木克哉をはじめとする氏子有志が厄除記念に奉納される。

 狛犬一対
作者 彫刻師 石城郡小名濱町 馬目賢次 馬目文吉 両氏


○ 第124代昭和天皇の昭和六年(1931)三月二十七日 参道に石造りの神明式大鳥居が氏子有志の厄除記念に建立奉納する。(東日本大震災により倒壊する)

○ 第124代昭和天皇の昭和七年(1932)四月八日 氏子有志が厄年記念に神輿蔵を寄進・奉納する。(神輿蔵寄進者銅版銘による)

○ 第124代昭和天皇の昭和九年(1934)四月八日 氏子有志が厄除記念に境内に玉垣を献納する。(境内の石碑による)

○ 第124代昭和天皇の昭和十三年(1938)十月二十六日 出征兵士の武運長久を祈り、境内に国旗掲揚塔を奉納する。 願主 四倉町出征軍人家族一同(東日本大震災被害により撤去)

○ 第124代昭和天皇の昭和二十一年(1946)大東亜戦争敗戦により、進駐軍GHQによる神道指令が発令され、社格制度が廃止される。

○ 第124代昭和天皇の昭和三十年(1955)諏訪神社神輿新造営される。様式=京神輿

○ 第124代昭和天皇の昭和三十二年(1957)旧正月 四倉漁業組合により神話「天の岩屋戸」香山太宣 画の大絵馬が奉納される。

(資 料)

神話「天の岩屋戸」香山太宣 画
香山太宣(1899〜1963)
明治32年(1899)長野県飯田市松尾に生まれる。
本名 治郎 積翠、太宣と号す。
小学校卒業後、飯田市内の河野眼科院の書生となる。
大正六年(1917)18歳で上京、日本画家山内多聞の門下生となる。
多聞没後、福島県に移り平田村、いわき市内郷、平、四倉と移り住む。
昭和十二年(1937)平市制記念名所絵葉書原画展に出品。
昭和十五年(1940)石城三科会(旧龍城会)結成に参加。
昭和三十八年(1963)四月九日 いわき市四倉町において死去。享年65歳
〜いわきの文人画より〜



題不詳  (紙本彩色) 香山太宣 画

○ 第124代昭和天皇の昭和三十三年八月(1958)本殿総改築し新しく造営する。同年八月二十二日盛大に遷座祭が執り行われる。諏訪神社奉賛会会長鈴木常松氏 社総代代表長谷川義久氏 神社世話人長谷川嘉平氏 第三十三代宮司鈴木克哉。

くわしくは諏訪神社・神社情景(遷座祭)


○ 第124代昭和天皇の昭和五十七年(1982)十一月三十日夕刻不審火により神庫焼失。先人先輩から受け継がれてきた神輿三基焼失する。直ちに神庫新造営する。神輿三基は東京浅草 聖天町・神輿師 宮本重義の手により新調修復される。

○ 第124代昭和天皇の昭和五十八年(1983)四月三十日 神輿新造営に伴い入魂式が厳かに執り行われる。

くわしくは諏訪神社・神社情景(神輿受納式)

新神輿入魂式の模様

(資 料)

諏訪神社境内に安置されている
御神輿・御神庫罹災修復記念碑

表  面
敬神 御神輿御神庫罹災修復記念碑
裏  面
建碑の沿革 
 昭和五十七年十一月三十日夕刻 不審火により神庫内に火災発生し、先人先輩の遣わした尊い神輿三基 石造神庫を焼失し直ちに責任役員 社総代 相寄り、旧四倉町の氏子並びに塩木地区の有志による四倉諏訪神社奉賛会を設立し寄進を仰ぐことになった。
 修復予算額金参千七百万円也を策定し、氏子崇敬者二、一四三名の温かい御理解と御協力により、多額の浄財を仰ぎ翌昭和五十八年五月五日滞りなく、例大祭が執行された。
 これ偏えに氏子崇敬者各位の篤い敬神の念の賜てあり此の事業の竣工した事に対し、表心より感謝の誠を捧げるとともに永く後世に伝えんとして記念碑を建立した所以である。       
昭和五十九年一月吉日

○ 第125代今上天皇の平成十一年(1999)八月一日諏訪神社拝殿胴屋根葺替え工事始まる。

○ 第125代今上天皇の平成十一年(1999)九月十八日諏訪神社境内にある松大木が松食い虫により枯れ始め、惜しまれながら切り倒される。

○ 第125代今上天皇の平成十一年(1999)十月三十日諏訪神社拝殿胴屋根葺替え工事竣工。

○ 第125代今上天皇の平成十四年(2002)四月 敬宮愛子内親王殿下ご誕生を記念し境内に真榊を植樹する。

敬宮愛子内親王殿下ご誕生を記念に
神社敷地内に植樹された
真 榊


○ 第125代今上天皇の平成十四年(2002)九月二十二日 四倉町鎮守諏訪神社ホームページを公開。

○ 第125代今上天皇の平成二十年(2008)五月二日 参道の手水舎を改修、竣工する。

○ 第125代今上天皇の平成二十三年(2011)三月十一日 午後2時46分東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)発生。震度6弱の揺れにより当社は甚大な被害を被る。参道の石造り大鳥居倒壊、石段一部損壊、玉垣全壊、灯篭倒壊、神輿収納蔵一部ひび割れ確認。これにより5月に執行される神輿渡御祭は史上初の中止となる。ただちに復旧工事を開始。

○ 第125代今上天皇の平成二十五年(2013)十二月八日 東日本大震災の復旧が全て完了(玉垣再建 大鳥居再建 石段改修 神輿蔵修復 灯篭復元 等) 竣工奉告祭を執り行う。



震災復旧竣工奉告祭 平成25年12月8日







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