諏訪神社拝殿(左)と本殿(右)


四倉町鎮守 諏訪神社
(別名 沼里諏訪明神)

[所在地]
福島県いわき市四倉町字西三丁目61番地

[宮 司]
第三十六代宮司 鈴木宜之(のぶゆき)
[禰 宜]
鈴木俊克
(としかつ)

[兼務社]
二十二社


[交通アクセス]
JR常磐線「四ツ倉駅」下車徒歩約10分
常磐自動車道「いわき四倉IC」から車で約10分




諏訪神社遠景



明治三十八年(1905)十一月磐城国石城郡四ツ倉町全景絵図 光彰舘 刻 

[祭 神]
(たけみなかたのみこと)

[祭神解説]

 信州(長野県)諏訪大社の御分霊を勧請する。御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子神で諏訪の地にて猛獣毒蛇などを退散し開拓し、殖産の守護神として奉られた。古くは農耕の神として、生活の根源神として、中世以降は日本第一の威烈ある神として、全国に奉斉建立される。

 當社は淳和(じゅんな)天皇の御宇、天長年中(826年頃)、田戸修理太夫の勧請する所なり。當町字白山に其館址存し、社殿は山の中腹に在り後鳥羽(ごとば)天皇の文治五年二月(1189)鈴木重家、紀洲牟婁(むろう)郡有馬村榎本より田戸郷に移り住む。後土御門(ごつちみかど)天皇の文明元年(1469)、重家八代目の孫鈴木重長祠官に任じ諸人と計り本社を現在の地に遷座なし産土大神(うぶすなおおかみ)と齋き奉り諸人の崇敬する所なり。爾來現社掌に至りて十数代連綿として其職を襲げり。抑々建御名方大神は大己貴大神(おおなむじおおかみ)大国主命の御子に在して武神に在らせたまふ。又海陸守護の大神に在らせることは普(あまね)く人の知る所也。後水尾(ごみずのお)天皇、慶長十八年(1613)二月磐城平藩主、鳥居左京亮忠政公より社田高一石九斗四枡を下賜せらる。後西(ごさい)天皇の寛文元年(1661)九月神殿再建の棟札あり。享保年度同じく磐城平藩主、内藤備後守政樹公度々参拝せられ朝鮮牡丹二本を献納せられ、今尚神園に繁茂せり。
明和四年冬(1767)衡巓(こうてん)の詩に曰く、


徳明護世大明神
黙祷傾心賽祷人
五六百家華表外
被光庇在四倉濱

徳明ラカニシテ世ヲ護ル大明神
黙祷シテ心ヲ傾クル賽祷(さいとう)ノ人
五六百家華表(かひょう)ノ外ニアリ ※華表=鳥居のこと
光庇(こうひ)ヲ被ルハ四倉ノ浜ニ在リ

 明治六年(1873)神社改正の際村社に列せられ、例祭は古くより毎年四月八日を以ってし神輿當濱海岸へ御駐輦あらせらる。其際神饌に潮水を献ず。神殿は巍々たる岩石の上に立ち巽(たつみ)=南東=の方に向へり南北松杉列す。就中石段を上りたる所、西側に一株の老杉あり。周圍一丈二尺余に及へるを最大なりとす。幹より両岐して太さ相均し恰(あたか)も二本の木地より立てる如し。階下右して大なる手水石あり。面に衡巓の賛。

雕 蓄 水 石
獻 大 明 神
掬 之 漱 條
便 賽 祷 人

蓄水の石を彫り
大明神に献ず
之を掬(スク)い漱(スス)ぎ滌(アラ)うは
便(スナワ)ち賽祷(サイトウ)の人。
兀子(ごっし)書 ※兀子は衡巓の号 明和三年冬(1766)

と刻せり。東は町家を擁して渺々(びょうびょう)たる大海に臨み社の正面より直路市街に出ずるを得、景色秀絶當郡稀有の霊跡なり。

宝 物
一、古代鏡
一、厳鉾(いかほこ)
一、長柄ノ鎌
径四寸
一振 長三尺八寸
長八寸 柄三尺五寸

沼里(ヌサト)浦を見てよめる
中原義民
すゑ遠き
沼里の浦に来てみれば 浪の花咲く春の夕なぎ

社頭    文彦
あかねさす初日の影の玉たすき 掛けてぞ祈る神の御前に
※沼里(ヌサト)の浦・・四倉の浦を指す。往時四倉の浦は浅い沼のようだったという。または「野里の浦」とも呼んでいたという。従って上記詩にある「沼里の浦」とは四倉の浦のことである。
注)浦=湾または入り江のようなもの。~広辞苑より~

明治三十八年(1905)十一月磐城国石城郡四ツ倉町全景絵図 光彰舘 刻 諏訪神社紹介文を加筆修正掲載。







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